marimonfuwaのブログ

何かしんどいなぁと思う時に綴ろうと思います

ゲームとアニメ

我が家はゲームとアニメの好きな家族で、子供は小さいときからゲームをしている。


ゲーム機を買い与えたのは保育園の時。


シナモロールが大好きだった我が子。
任天堂DSで「フーフーしてね~」と、ゲーム機に向かってフーフーすると、キャラクターが転がって・・・という、小さな子供でも遊べるものだった。


そこから始まったゲーム生活。
そして、アニメを観る私と一緒に、小さな頃からアニメーションを観て育った。


小さな子供が大好きだろうと思われる、アンパンマンは観なかった・・。
私は観たくはないが、子供がまだ2歳くらいの時、小さな子供はみんな観てるかなぁと、思って、その時間にテレビをつけたら・・椅子に座っていた我が子はおもむろに椅子から降り、テレビに向かって歩いていった。
そして、テレビのスイッチを押し、テレビを消したのだった。。


「アンパンマン嫌い・・」
あの、顔をちぎって渡すシーンが嫌いだったそうだ。


ゲームはそこから、お決まりのポケモンに移行した。


うちのルールは簡単で、新しくゲームを買ってもらったら、必ず、エンドロールを観るところまでやること。
子供が産まれてからは、DSから始まって、DSLL、Wii、PSP、3DS、XBOX、PS4、Switch・・・
そして、ついに買ってしまったのはPS5。
やりたいゲームも特にないからという理由で、PS5だけはずっと見送っていたのだが、オンラインでFFをやっている子供は、バージョンアップのダウンロード時間が長い!!!と、しびれを切らし、ついに昨年のクリスマスプレゼントで、PS5をゲットした。
快適~と、喜ぶ子供。
アルバイト代で買おうかと思ってたけど、得しちゃった~と。


私は何故か、無性に昔やっていたダービースタリオン99がやりたくなり、古いPS2を引っ張り出して一から牧場を作って、せっせと馬を育てている。
子供はSwitchでどうぶつの森をやっていて、島づくりにいそしんでいる。
昨日はほとんどの時間をゲームして過ごしていた親子だった。


初期PSのダービースタリオンは、牧場を完成させて、殿堂入りさせた馬も数知れず。重賞から凱旋門賞まで全制覇していたので、こちらはもう一度やる気にならず、、


アニメーションは絵が綺麗な作品が好きなので、観終わってから、子供と一緒にあーだこーだ言えるのが楽しい。
4月から大学4年になる子供。希望するゲーム会社に就職、決まると良いよね。。

京都アニメーションの事件についての判決が出ました・・・

京都アニメーションの放火殺人傷害事件についての判決が出ました。


この事件において、心神耗弱を理由として減刑を求めていた弁護側の理由を退け、京都地裁の裁判長は死刑判決をしました。
このまま弁護側も被告も控訴せずに、この判決を受け入れて欲しいと思います。


36人の死者とそのご遺族、32人の負傷者とそのご家族、京都アニメーションの社員の皆さんや被害に遭われた方の関係者の皆様、アニメーターとして活躍されていた方々のファンを含めたら、一体何人がこの事件に憤りと悲しみを覚えたかを思い起こしてほしいと思います。


人は想像を超える出来事を目の当たりにすると、それが現実であるということを受け入れることに心が抵抗します。
夏の暑いあの日、テレビで報道されているスタジオの火事の様子を茫然と眺めていました。
放火事件とは思わなかったので、スタジオにいる皆さんは無事に非難しただろうか・・・と、そればかりを願っていました。


想い出すだけで涙がこぼれ、喉の奥が詰まります。
家族でも何でもない、ただの一ファンです。


被告人、どうか、この判決を受け入れてください。

血縁関係って難しい・・・

正月早々に妹とけんかになって、未だにちょっと引きずっている。。


子供の頃から仲は良かったと思うのだが、、ちょっと面倒くさい性格になっていて、被害妄想が激しいのだ。


わたしにも若干の要素があって、そもそも、アダルトチルドレンなのだという自覚はあるのだが、妹にも形は違えど、その要素はあるらしい。


わたしには2人の妹がいて、下の妹と話をする時には緊張する。
うっかりと言ってしまったことをいつまでも覚えているので、迂闊に話が出来ないのだ。


小さいころ、母の忙しかった代わりに面倒はよく見ていたと思う。
幼稚園へ自転車で迎えに行ったり、出かけるときに駅まで自転車の後ろに乗せたり。
たった3歳6か月しか違わないのだが、私は体が大きかったので、妹2人のうち、母の代わりに下の妹の面倒をよく見ていた。


小学3年生の時に、母が入院した時も、幼稚園の妹たちと父の食事の用意をしたのは私だった。当たり前にやっていたことなので、特別なことだったとは当時思っていなかったが、よくよく考えてみたら、自分はなんとも不思議な子供だったのだと思う。
何の問題もなく、学校へ行って、家に帰って家事をして、父の手を煩わすことなく、母の入院期間を終えた。


その後も、母は私たちを置いて、自分の実家へ両親の介護をするために帰ることが良くあった。そんなときも、全く困った記憶がないのだ。
妹たちにすれば、きっと不安でたまらなかったと思うが、私はあんまり気になった記憶がない。


そんな姉である私のことを、20数年前のある出来事から、姉とは認識しなくなったのが下の妹である。
私の不徳の致すところで、それは致し方ないかとは思っているが・・・。


父が死んだとき、母が一人残ってしまうことを、私たち姉妹はそれぞれの考えで心配をしていた。
自分のことは何でもできて、シャキシャキしている母である。
私としては、急いで誰かが母の近くに住む必要はないと思っていた。
そこに、下の妹は半ば強引な感じで、私ともう一人の妹に、実家の空き地に家を建てて住む算段をしないかと迫ってきた。どちらも子供がいて、通学の都合もあり、即決は出来ないことで、数年後には考えられるかもしれないけれど、今すぐにというのは無理だというようなことを言ったら、「じゃあ、私が仕事もやめて、実家に戻るね。」と、即決してしまったのだ。
父が死んで、司法書士さんは私が探して、実家の土地は母と私たち三姉妹の共有名義とした。
空き地に妹が建てた家は、明らかに土地の4分の1にはならないサイズなので、名義が4人である以上、他人の持ち分に家を建てた形になる。
そのことについて、特に私も、もう一人の妹も、何も言うつもりもなかったのだが、下の妹は「使用貸借契約書」を作ってきて、有無を言わさずにそれにハンコを押させたのだ。


正月に喧嘩をした時に、固定資産税の支払いについて、私が無視をしていると言い出し始め、名義は4人であっても、自分が使用貸借契約書によって、無料で土地を使えるようにしているのに、固定資産税は負担しろと言いたかったらしいのだ。


まあ、税理士だし。金のことには細かいのはなんとなくわかっているから、「使用貸借契約書」を取り付けておかないと、不利になると思っていたのだろう。


しかし・・・・
相続税も発生しないような、微々たる実家の土地である。


こんな話は身内にはできないので、ここにつらつらと書かせてもらった。
正月の喧嘩から、なんとなく、頭の隅っこに引っかかっているこのことは、私の中で、母が死んだら下の妹とはあんまり関わりたくないなぁ・・・と、そう思うのだった。