宗教に取り憑かれてしまうのは何故か
世の中にたくさんある宗教。
信心することは、自らの心の有り様を確認するためで、誰かや何かに振り回されてしまう事態は、正しく宗教と向き合っていないのではないかと思う。
宗教に関わると、他人の行いに干渉してくる人もいる。考え方が良くないとか、行動がいけないとか。
ついには、お金の使い方にまで干渉してきたら、自分は怪しい団体に取り込まれる。
ここで、騙されているのだと気づけなければ、身包み剥がされる。
なんの縁もゆかりもない人から親切にされた時、心が弱っているとありがたく感じることはあるが、そうではない時にはお節介な人だと、不信感に繋がる可能性が高い。
友達でも、知り合いでもないのに、何で親切にしてくれるのですか?と、尋ねてみれば良いのだが、心が弱っていると、その疑問すら湧かない。
そうやって、心のスキを見逃さないのは、詐欺師と同じなのだと思うのだが、如何だろうか?
哲学を学ぶ場合、学問としての取り組みになるので、誰かや何かに振り回されてしまうようなことにはならないと思う。
心が弱っている時には、哲学書を読んだ方が冷静に自分と向き合うことが出来ると思う。
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