溢した水は二度と戻らない。
引き算の人生は、自分の容量が決まっていて、溢した水を留める術は無い。
新しい器を用意して、両方とも維持出来る人もいるだろう。
新しい水を注ぐ為に、水をわざと溢し、泥水を足してしまったのが、私の人生なのだろうと思う。
淀んで濁った水に、新しい水を注いで、透明な水にする為には、長い時間がかかった。
まだ、濁りはとれていない。
溢した水は二度と戻らない。
引き算の人生は、自分の容量が決まっていて、溢した水を留める術は無い。
新しい器を用意して、両方とも維持出来る人もいるだろう。
新しい水を注ぐ為に、水をわざと溢し、泥水を足してしまったのが、私の人生なのだろうと思う。
淀んで濁った水に、新しい水を注いで、透明な水にする為には、長い時間がかかった。
まだ、濁りはとれていない。
最近、ドラマやニュースなどで、人の不幸をネタにしたものを見ることに、嫌悪感を抱くようになった。
幸せそうな話とか、良い事をした話とか、可愛い話とかばかりではないのだとは思うけれど、ニュース番組も、事件、事故をあった事実だけを報道するならまだしも、そこに、色々な解釈をつけて、時には、犯罪者の生い立ちがいかに不幸だったかなどの情報を流し続けたりする。
要らない情報だと思う。
幸せってなんだろうと、素朴な疑問が昔からあって、人それぞれだから、自分が人より幸せか不幸を比較したとすると、そこから不幸になるなのだと思う。
でも、そんな事を考える時点で、幸せっていう概念はよくわからないから、自分は幸せかどうかを考えないようにしようと思っている。
せめて、ドラマとかだけでも、少しずつ楽しくなって観られるものを観ていたい。
会って話すこと。
それが会話だと思っています。
電話で顔が見えない状態でいくら話をしても、表情やしぐさは見えません。
テレビ電話が出来る時代になって、表情やしぐさは見える状況を作れるようになりました。
会えないならば、せめて、その方法を使って話をした方が良いと思います。