marimonfuwaのブログ

何かしんどいなぁと思う時に綴ろうと思います

学校教育の限界

学校に行きたくないと感じる子供たちが一定数いる。


不登校する子に問題があるといって、学校側は根本的な原因を追求しない。
いじめが理由だとしても、いじめる側の人権を尊重して、犯人を晒し者にはしない。
学校側の対応を目の当たりにして、不信感を募らせ、登校できなくなる子もいる。


教育委員会は学校運営を円滑に動かすための組織なので、一個人の訴えをまともに聞いてくれるところではないと思った方が良い。


個性を尊重する民族ではない日本人的な感覚は、同調意識が全ての発端で、ちょっと人と違う行動をする子供は軽視されるようになる。
先生の中にはみんなと違うということで、殊更に周りから注目されるような注意をする人もいる。
そうなると、子どもである児童の中には先生がそういうことをするのだから、自分たちがその子を弄っても何の違和感も覚えない。


死んでしまってから、学校側と親御さんのバトルが始まる。
でも、自分の子が受けた心の中を、学校側は全く把握できるはずがないのである。
死んでしまった子の話を生きている間に聞いてないのだから、幾ら調べてもわかる筈はない。


我が子が小学校に上がったときに、僅か7歳の子どもが毎日、足を引きずって下を向いて登校する姿を見て、何とかしなければならないと、思いつく限りの対応をしたがすぐに無駄なことだとわかった。
お為ごかしの機関は整えていても、そこに配属されている人の対応は問題をいかにして小さく収めるかということに尽きるのである。


我が子はきちんと診断してもらった訳ではないのだが、若干の発達障害が見受けられる。
入学式の時に我が子ただ1人だけ、座っている椅子で足をブラブラさせたり、キョロキョロと周りを見回したり、身体を揺すったりする姿を確認して、驚いたと同時に注意が必要だなと感じた。


間も無く、担任からの執拗な注意が始まったようで、明るかった子どもは夏休みの前には暗く青白い顔をして学校へ行くようになったのだ。
頭が痛い、お腹が痛いと訴える日がだんだんと増え、サボり癖をつけてはいけないと考えて、途中まで一緒に着いて行ったりもした。


担任からの執拗ないじめとも言える仕打ちを確信したとき、なんと、私は我が子に我慢を強いた。本当に酷なことをしたと思う。
ただ、寝てても構わないし、保健室に居ても良いし、学校のどこかに居れば教室に居なくてもよいということを伝えた。
そして、頭が痛いと訴えるときは学校を休ませ、学校から保健室で休んでいるから迎えをお願いしますという連絡が来たら、迎えに行った。


育った我が子に、あの頃の母の対応が間違っていなかったかと問うてみた。
すると、「お母さんが、『寝てても構わないし、保健室に居ても良いし、学校のどこかに居れば教室に居なくてもよい』と、言ってくれたから、それで良いんだと思ったら学校へ行くのが少し嫌じゃなくなったんだよ。」と、言ってくれた。


ただ、我が子は大人を丸ごと信じないという性質が身についてしまった。
小学校へ上がるまでは、大人の言うことは間違っていないものだと思っていたが、初めて学校で先生と関わった時に、誤魔化すようなことを言ったり、突然怒鳴りだしたりする大人を見て、びっくりしたし、大人なのに・・と、思ったとも言っていた。


我が子は小中学校が大嫌いで、9年間の義務教育は全く持って意味のないものだったと言っている。
9年間で最もお世話になったのは養護教諭で、小学校から中学校で3人の養護教諭には良くしていただいたと思っている。我が子の性質を理解してくれていて、ちょっと保健室へ寄っても休ませてくれ、熱がないときは迎えの電話を入れずに様子を見てくれていた。


学校という単位で集団生活をさせようとすれば、異質な行動をする子供に対し、排除しようとしたり、矯正しようとしたりすることは仕方のないことかもしれない。
ただ、現段階において、学校教育という現場が既にいびつな集団で、そのいびつさになじめない子供が多いのだとしたら、学校教育そのものが間違っているのではないかと考えたほうが良いのでなないかと思う。


皆と同じであることが良いことではないのだから。